消えゆく記憶の中で3:
母とともに「今を生きる」
狩山鈴恵・ナオミ親子
2008年8月24日

狩山鈴恵さん、ナオミさん親子
「まさかこんなに早く、介護者になるとは思ってもいなかった。右も左
も分からないまま、とにかく前に進むしかなかった」—
ガーデナ生まれの3世ナオミ・狩山さん(49)が、母鈴恵さん(8
8)のアルツハイマー病に気がついたのは、10年前だった。火にかけて
いたことを忘れ鍋を焦がしてしまったり、もちアイスクリームを電子レン
ジで暖めてしまったりと、はじめはそのほとんどがキッチンで起こった。
妻、母、主婦として、料理や洗濯、掃除を完ぺきにこなしていたため、家
族が鈴恵さんの病気に気がつくのに時間はかからなかった。
症状は徐々に進行した。散歩から2時間戻って来ないこともあった。昼
夜を問わないはいかいも増え、玄関や裏戸など、家中の出入り口に内側か
ら鍵を付け対応した。買い物先で一瞬の隙に姿が見えなくなり、シェリフ
局に連絡、1マイル先を1人で歩いているところを保護されたこともあっ
た。旅先のホテルで夜中にはいかいし、裸足でロビーを歩いているところ
を警備員が保護、腕に付けていたアルツハイマー協会の「IDブレスレッ
ト」により、同じ部屋で寝ていたナオミさんの元に連絡が来たこともあっ
た。
かかりつけの医師に症状の進行を遅らせる薬を処方してもらったが、良
くなる気配はなかった。ソーシャル・セキュリティーで生活する鈴恵さん
と夫の真金(まきん)さんにとって、毎月100ドル以上もの薬を購入し
続けるのは苦しく、症状の改善も見られなかったため、処方を辞めざるを
得なかった。
鈴恵さんの消えゆく記憶に戸惑っていた真金さんも、ナオミさんと支援
グループや専門医によるセミナーなどに参加し、病気に理解を示してき
た。鈴恵さんに任せきりだった掃除や洗濯、炊事など、ナオミさんから一
つひとつ教わり、慣れない手つきながら、1人でも家のことができるよう
になった。「あの年で新しいことを一から学ぶのは大変だったと思う。で
も父は、1度も愚痴をこぼしたり、文句を言うことはなかった」
親戚とのリユニオンのため3人でラスベガスに向かっていた途中、真金
さんが肺炎になり、そのまま入院となった。10日間の入院後、真金さん
を救急車でガーデナの病院に移送したが、1週間後に心臓発作で他界した。
1日にして介護者に
真金さんの突然の死により、ナオミさんの生活は180度変わった。最
愛なる父を偲ぶ時間すらなく、鈴恵さんの介護が始まった。真金さんの手
伝いはしていたが、実際に自分が介護者になると状況はまったく違った。
特にひどかったのが、はいかいと不眠。目を離せなかった。眠れないた
め、夜中に家中を歩き回った。自分のために費やす時間がなくなり、友達
との食事や映画、小旅行など、以前は特別と感じなかったことが、手の届
かない、貴重なものに変わっていった。「レジデンスホームや24時間介
護は、財政的に不可能だった」
貯金を食いつぶす日々
税理士事務所で働きながら、鈴恵さんの介護をするのは並大抵のことで
はなかった。ナオミさん自身も持病を抱え、体力的にも、経済的にも厳し
い日々が続いた。真金さんの死により収入が減り、貯金を食いつぶしなが
ら、週2日のデイケアと、週3日の介護士代を払った。
鈴恵さんに言いたいことがうまく伝わらず、イライラすることも多かっ
た。「Go to bed(寝なさい)」と言うと、鈴恵さんは外に出ようとす
る。「外じゃないでしょ」。何度も繰り返した。どうしたら分かってもら
えるのか、毎晩のように1人で泣き続けた。
最善の介護法を模索する中、鈴恵さんにとって「Go」が「外へ行く」
との意味に解釈されていることが分かった。以来「Time to bed(寝る時
間です)」に変えると、素直に寝室へ向かった。
転機が訪れたのは、支援グループやセミナーで集めた情報をもとに、
ソーシャルワーカーに相談してからだ。介護など特別な支援が必要な人に
さまざまなサービスを提供する低所得者用の健康保険制度「Medi-Cal」を
申請するようアドバイスされた。承認を受け、最大週5日午前9時から午
後3時までのデイケアに加え、月々の介護費が支給された。ここまでくる
のに、2年間を要した。
しかし、鈴恵さんのデイケアは午後3時まで。送迎サービスはあるもの
の、誰もいない自宅へ送り届けてもらうことはできない。上司に相談する
と、「できる限りの協力はする」と、デイケア終了からナオミさんの帰宅
まで、オフィスに鈴恵さんを連れてくることを承諾してくれた。
「社会が変わったのか、私が年を取ったのか、最近、自分と同じ状況の
人によく出会う」。会社の同僚や友人の間でも、親の介護をする話をよく
聞くようになった。
鈴恵さんは、アジア系のアルツハイマー病研究に取り組む南カリフォル
ニア大学ランチョ・ロスアミーゴス校の研究事業に協力している。同事業
の診断によると、鈴恵さんは、複数回の小規模な脳卒中により脳の機能が
低下、アルツハイマー病に至った経緯が分かった。「母が他界した際に
は、研究所で脳の細部まで検査してくれる。母のデータが未知の病の解明
に少しでも役立ち、特効薬が開発されれば嬉しい」
「その時」が刻々と近づいているのは分かっている。昔は1人でできた
歯磨きも、今ではナオミさんなしではできなくなった。箸やフォークの使
い方が分からなくなる時もある。会話もなくなった。介護を始めた10年
前、鈴恵さんが歩けなくなった時が、看護ホームに入居する時だと決めて
いる。その時は近い。
不安は常にある。「父の死以来、母中心の生活を送ってきた。私の人生
は母の人生となった。母がいなくなった時、昔のように自分の人生を歩む
ことができるか、正直分からない」。時間が許す限り、鈴恵さんを親族や
介護士に数時間預け、友人とコンサートなどにでかけるようになった。こ
の数時間の「休息」が、介護を続けるにあたり重要になってくる。また、
鈴恵さんを連れ、趣味の太鼓クラスにも通いはじめた。少しずつ「自分の
生活」を取り戻そうとしている。
母は変わらない
変わるのは介護者
昨年8月、親戚40人を招き、鈴恵さんの「米寿」を祝った。いとこか
らは、「どうせ何も覚えていないんだから」とのきつい言葉をもらった
が、ナオミさんが、過去も未来もないが、普通の人と同じく感情を持って
「今」を懸命に生きていると説得すると、理解を示してくれた。
誕生日会で鈴恵さんが見せた笑顔は、久し振りに再会した家族を1つに
した。「母は変わらない。変わらなければいけないのは介護者。われわれ
が事実を受け止め、それに順応しなければならない」。この事実を受け入
れるのに、10年を要した。
「今を生きる」—。ナオミさんが鈴恵さんから学んだ人生の教訓。「母
の愛らしい笑顔をエネルギーに、2人で今を生きていこうと思う」
(シリーズおわり)
(取材=中村良子)
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