シーボルトが日本追放になってから3年後、ドイツのハンブルクで作曲
家ブラームスが生まれました。しがない音楽士であった父親の手伝いとし
て、子供の頃から盛り場の場末の酒場でピアノを弾いていたことが影響し
たのか、性格的な問題なのか、女性に対して非常に不器用な人でした。自
分を世に知らしめてくれたことに対する感謝と尊敬の対象であったシュー
マンの未亡人クララに対する思慕とも恋愛感情とも言うことのできる複雑
な感情も、その原因の一端を担っている、というより最大の要因だったか
もしれません。いずれにせよ、ブラームスは一生を独身で通しました。
つねにクララのことが気にはなりながらも、ブラームスは1858年夏
に知り合いを通じて出会ったアガーテという美しい声を持つ若き女性と恋
に落ちます。彼女のために数曲の歌曲を書き、彼女が歌い作曲家自身がピ
アノ伴奏する度に愛は深まりました。15歳年上のクララは、若干25歳の
ブラームスにとってはとてつもなく大人の女性で、対照的に2歳年下のア
ガーテの若さ、純粋さ、可憐さが新鮮だったのかもしれません。二人は婚
約指輪まで交わし、後は結婚式の段取りを決めるという段階まで進んだの
ですが、ブラームスは「愛しているが、束縛には耐えられない」という手
紙を送り、自分がどうするべきかの決断をアガーテに託したのです。この
優柔不断さがうら若き女性の心を深く傷つけ、このことが原因で婚約破棄
という結果になりました。結婚してしまうと、永遠にクララを失ってしま
うという気持ちがブラームスにあったのかもしれません。
このアガーテ、本名をアガーテ・フォン・ジーボルトといいます。あれ
っ?と思いましたか。そう、あのシーボルトの親戚です。正確に言うと、
シーボルトの従兄弟の子供にあたります。シーボルトも標準ドイツ語読み
をすると、『ジーボルト』なのです。この二人の間には39歳もの年の差
がありますし、会ったことがあるとしても親しく言葉を交わしたことがあ
るのかは、大いに疑問符の付くところです。しかも、ブラームスとアガー
テが知り合った翌年には、シーボルトの日本追放が解かれて2回目の訪日
が実現していますから、ブラームスについて、自分たちの恋愛について何
か相談したということはかなり考えにくいことではあります。しかし、日
本に縁の深い人が、ブラームスともつながっていたなんて、難解なブラー
ムスの曲が少し身近に感じられるようになった気がしませんか。
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