

八島さん宅で開かれた1985年8月の句会。
中央が八島さん(写真=南日本新聞社提供) |
「やからんだ乃会」は197
2年の発足。八島さんは戦前、
東京美術学校(現・東京芸術大
学)在学中からプロレタリア美
術運動に参加していたことから
投獄されるなど弾圧を受けたた
め、妻の光さんとともに193
9年に渡米。美術学校で学んだ
後、児童画作家としての活動を
続けるとともに、日系人を対象
に絵の指導を続けた。 |
八島さんが自由律俳句に関心を持ち始めたのは1960年代初頭。文芸
仲間として交流のあった詩人の外川明が、ロサンゼルス・ダウンタウン東
ボイルハイツにあった「八島美術研究所」に持ってきていた俳誌「層雲」
がきっかけだった。自由律俳句は、伝統的な「五七五」の形態や季語にと
らわれず、詩の1種としての俳句を提唱。大正時代から昭和初期、第二次
大戦にかけて盛んだった。戦後も「層雲」はじめ、代表的な結社が活動を
続けており、著名な自由律俳人の人気はいまだに根強い。
「層雲」は日本の自由律俳句の第1人者とされる荻原井泉水(せいせん
すい)が主宰していた結社の機関誌。創刊は1911年で、「層雲」から
は尾崎放哉、種田山頭火などが出ている。その影響は海を越えてカリフォ
ルニア州にも及び、戦前には「アゴスト社」(ロサンゼルス)「湖畔社」
(北加)「バレー吟社」(フレスノ)などの自由律俳句結社があり、「層
雲」の同人として米国から投句していた下山逸蒼が「アゴスト社」と「湖
畔社」の実質的な指導者として活躍。下山は1935年、サンフランシス
コで死去したが、ロサンゼルスに住んでいた時代に文芸仲間として外川と
も交流があった。井泉水は37年に訪米。その時、外川とも会っている。
八島さんが「やからんだ乃会」を発足させたのは、現在サンフランシス
コに住む文筆家・野本一平さんや、「婦人公論友の会」の関野澄江さんか
ら「日本語を研究する集まりを作りたい」との相談を受けたのがきっかけ
だった。八島さんは当時すでに60を過ぎていたが、「描くこと」ととも
に「書くこと」にも強い関心を抱き、自由律俳句を通して「孤独な修行」
を続けていたことから、「自由律的方法を理解し実践しはじめることを基
礎とすべき」として、毎月の句会を通して、日常の日本語の研さんに努め
ることを提唱した。八島さんにとって「多様な詩を五七五の木型に言葉を
つめこむ日本独自の俳句様式は不自然」であり、「感動は呼吸をとめるよ
うな速い感動もあれば、深呼吸するようなゆっくりした感動もある。前者
が短律句となり、後者が長律句となるのはきわめて自然」だった。
呼び掛けに集まったのは38人。文章を書いた経験のある人はわずか
2、3人だけだったという。渡辺さんは、「日本語を磨くというなら、そ
れに賭けてみよう」という気持ちで設立と同時に入会した。
句会は毎月1回、第1土曜日に開催。34年間の活動の中でただ1度出
した創立4年後の句集には、当初は「既成俳句の概念的通俗性とのたたか
いだった」と記録されている。
その後、八島さんは76年にストロークで倒れたが、会の指導は亡くな
る94年まで続け、その後を渡辺さんが引き継いだ。渡辺さんは「八島さ
んはすばらしい師と言える人。表現という世界で実に多くのことを教えら
れた」と、八島さんの魅力を語る。
作句で乗り越えた人生
そうした活動を通じて、会員らはそれぞれ多くを学んだ。創立当初から
の会員の1人、下本慈江さん(68)は、八島さんの絵画のクラスの生徒
だったが、さそわれて「やからんだ乃会」に入会。八島さんの指導は厳し
かったが、お陰で「手紙にしても、日常の会話にしても、要点をかいつま
んで表現することができるようになった」と学習の成果を実感。広戸芳
江・デ・アギラールさん(70)も「以前は、母親への手紙が赤線を引か
れて戻ってくることもあったが、会を通じての勉強でそうしたことはなく
なった」と効果を指摘するとともに、「34年間、つらいことも俳句をつ
くることで乗り越えることができた」と、活動が日々の生活の支えになっ
たことを振り返る。渡辺さんの指導についてもアギラールさんは「よくこ
こまで到達されたなと、添削してもらいながら涙が出たこともあった」と
いう。 |